洞穴が帰厚坂(中の坂)の中腹にあったという場所には洞穴らしきものがない

帰厚坂(下り坂)登り口前方に帰厚橋が見える。ここが中の坂との境

新観音坂にある洞穴の前から、紅葉谷の向こうに卯辰山ドライブウエイのガードが見える

卯辰山ドライブウエイのヘアピンカーブを3回曲がった所から、帰厚坂(中の坂)が見える。
その少し上あたりに新観音坂が見える

右崖下に帰厚坂を見て、新観音坂を登る

洞穴の前に立ち、新観音坂の下方を見る

帰厚坂(中の坂)と新観音坂との合流地点、手前は上の坂

帰厚坂(中の坂)と新観音坂との合流地点。上の方は上の坂。この合流点手前数メートルの所に洞穴がある。

埋立てられている洞穴付近の道路からよじ登った所

洞穴の上部

























作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真
編集:刈本博保
古き金澤

『 卯辰山の初太郎(ハッタロー) 』

 初太郎の話は子どもの頃からよく聞いていて何となく親しみがある。しかし時代の推移にともなって初太郎の話も次第に薄れていっている。最近になって初太郎について調べて地域の人に残しておけばと、つたない筆をとることを思い立った。
 初太郎は、いつごろ卯辰山の洞穴に住みついたのだろうか。資料によれば、大正年間にどこからかやってきて、洞穴を探して住みついたらしいが定かではない。
住みついた洞穴の場所は資料によれば、卯辰山の帰厚坂(その坂も下の坂、中の坂、上の坂と区分され呼称されている)の中の坂の中腹の左崖にあったと記述されている。確かに、中の坂には崖の左側に雑木の茂った浅い洞穴らしき場所が一か所ある。しかし、人の住んでいたような形跡はなく洞穴を土で埋めた跡も見当たらない。
 卯辰山は子どもの頃の良い遊び場であった。浅野川の天神橋から卯辰山公園線(ドライブウエイ)を山頂に向かって行き、途中急なヘアピンカーブを三か所過ぎると、左側下に紅葉谷や梅谷が見える。谷の向こう側の崖に沿って下の方から帰厚坂(中の坂)の登り坂が見える。その少し上の崖に新観音坂が樹の間に見え隠れする。子どもの頃の記憶では、この場所から谷の向こうの初太郎に向かって、皆で大声でからかって逃げてきたことを想い出す。この様なことから推測すると、初太郎の住んでいた洞穴の場所は帰厚坂(中の坂)の左側の崖の洞穴では無いと考えられる。ただし、参考資料が少ないので卯辰山付近に住む年配の人に聞いた方が情報が得られると思いたち、幸い知人の友人で、旧観音町に在住の人に話を聞くことが出来た。初太郎の住んでいた洞穴は、浅野川大橋詰から旧観音町通りを山麓に向かっつて進み、左側の新観音坂を登っていくと、紅葉谷と梅谷の上に出るが、その手前の崖下に帰厚坂(中の坂)が見えてくる。新観音坂は崖に向かって左折し、上り坂が続く。そこをしばらく行くと帰厚坂(中の坂)と出会う。この三叉路の手前数メートルの左側の崖に大きな洞穴があったというので、実際にそこに行ってみた。
 洞穴は土で完全に埋められてはおらず、上の方に少し隙間がある。埋めてある土の上をよじ登って隙間から中を覗いたら、下の方に白い小箱らしきものが一個見えた。奥の方は上からのぞいているので見ることは出来なかったが、他に何か見えないかと、しばらくは見ていたが薄気味悪くなってきたので道路に降りた。洞穴の前から紅葉谷や梅谷の向かいの崖の上に、こちらからはやや高い位置にドライブウエイの白いガードレールや車が通っていくのが見えた。
 ここで、初太郎とはどんな人物であったろうか。子どもの頃の印象としては、汚い乞食の様で薄気味悪い感じがして近寄りがたかった。資料によると、”飄々とした風貌の彼は身長五尺八寸位、長髪に簡袖着衣長尺の自然木を持ち半眼を開きて快く誰にでも話してくる姿はまさに南画より抜け出た蝦蟇仙人の如し。山遊びの酔客に、子わろたちのなぶり名呼ぶに愛嬌をふりまき、只今持って忘れられん山の名物男や”また、別の観点から資料を見ると彼の変わった点が見受けられる。
”「初太郎、地獄の閻魔さんに電話かけんかい」と子わろのなぶり声に彼の十八番、電柱に素早く耳を押しあて目玉を白黒させての「もしもし何番…」とやるとその仕草もベルを回すこと数回など人のよい四十男の愛しさ…”またある時は国本氏のアトリエで画家たちの芸術談議に聴きいったリしたと言う。
 さらに、初太郎の日常生活はどうしていたのだろうか。洞穴での日常生活の細部については分からないが今のところ資料に基づいて述べるしかない。初太郎は午後になると杖を片手に胸に大きな布袋を提げ草履を履き、しばしば目をして、洞穴から常得意の”ひがしの廓”の里周りをする。彼の人徳というか、廓の姐さん達から可愛がられたらしい。お茶屋を回ると軒並みに呼ばれて、彼に食べ物を与えてくれる。これが彼の糧としたらしい。これも色街特有のならわしか、それとも施しだろうかと思われる。また、篤志な人がいて、初太郎の洞穴の前に手作り弁当を箸まで付けておいて行くこともあったと言う。しかし、初太郎にも稼業があった。それはきれいどころの廓のお茶屋では客にもてなす座敷火鉢に使用する炭切の仕事である。当時お茶屋では座敷火鉢に使用する炭はクヌギ(ドングリの木)の特一等の最上級品を使用した。角型の炭俵に入っている炭を七つ切りにして、その切り口の菊座のような模様を客に体裁よく見せるように並べ、枝炭と共にお炭手前で客人に気心を示したと言う。この汚れる炭切の仕事を初太郎は毎日弓張り鋸で炭切を稼業として、廓のお茶屋から重宝がられていたと言う。
 初太郎のその後については、資料によれば昭和十年金沢市が観音町三丁目六十六番地に建ててくれた庵に住んだ。そこで、人出の多い賑やかな場所の路傍で三味線を弾いていた盲目の女性と同棲していたと言う。地図には地番が掲載されていないので、場所の確認は出来ていない。初太郎の住居の移動については分からないが、私の推察では世相の推移により食料事情も悪くなり、生活が出来なくなり困窮者の収容施設に収容されたのではないかと思われる。そこに収容された後、昭和十五年(1940年)に死亡して、その遺体が献体され、現在卯辰山にある金沢大学解剖体墓地に眠っている。
 彼の物語はあの時代を卯辰山周辺で暮らした人たちの共通の想い出として、伝説のように単純化され、町の人達の心に残っている。
                                 合掌

追伸:他に初太郎について御存じの方がおられましたらお教えくだされば幸いに存じます。

(参考資料)
  1)「浅野川年代記」、十月社(1990)
  2)「七百三十日のひぐらし」、北国新聞社(1991)

帰厚坂付近の地図