作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真
編集:刈本博保
古き金澤

『卯辰山のホルトルマンの家の墓について』
 
 はじめに

 卯辰山にホルトルマン家の墓があることを知っていたが、墓の由来については全然知らなかったし、関心もなかった。過去に数回訪ねたが、単に見て還る程度であった。だが数年前からいろいろとご指導をいただいている方から、卯辰山にあるホルトルマンの墓について、お話をお聞きし、また参考文献も戴きましたので、それを主体として拙いながら執筆することに致しました。卯辰山に眠っている種々の歴史を一つでも掘り起こして、卯辰山周辺の人々に、少しでも多く私たちの住んでいる地域の歴史について知ってもらい、また、若い人たちに末永く伝承していくことを希望しています。
 
 一、ホルトルマン氏の経歴

 卯辰山の末広墓地にある墓は、ホルトルマンの三人の娘たちの墓である。彼はオランダの開業医で、明治8年(1975年)7月に金沢医学館教師スロイスの後任として着任し、明治12年(1879年)6月に、任期が終わり金沢を去り新潟病院医学所に赴任した。
 新潟に着任した明治12年(1879年)には、コレラが大流行し、彼は検診と防疫に、危難を冒して当たった。その結果新潟県知事からその功績に対し表彰されたという。しかし、明治13年(1880年)8月に雇用契約を解約された。それは新潟県議会が外国人医師に支払う俸給月300円を承認しなかったためであった。その背景として外国人教師が通訳を介して、外国語で教える医学教育をやめて、東京大学で養成された日本人医師を起用し、直接日本語で教える教育に切り替える時期に来ていたことが窺える。当時は、スロイスもホルトルマンもオランダ語で講義をした。竹谷俊三、馬島健吉、伍堂卓爾らが通訳として”一語一語に口訳して伝え、学生らはそれを筆記したという。ホルトルマンの経歴について、明確に記録が日本に残っているのはここまでである。日本を去った後のことは明らかでないという。
 その後石田純郎氏がオランダでホルトルマンの経歴について調査をした。アートリアン・C・ホルトルマンは、弘化元年(1844年)オランダのザイベに生まれた。文化2年(1862年)アムステルダム・クリニカルスクールに学び、慶応元年(1865年)ハールレムで外科開業試験を受け、慶応3年(明治の前年、1867年)に国の医学試験を受けた。同氏によりハーグの国立古文書館で、オランダ人医師雇い入れのための石川県からの依頼書が発見された。石川氏の論文の図版によれば石川県から横浜在留の和蘭国代辨領事と和蘭商館に次の依頼書が発給されている。図番の写真が鮮明でなく文章の形態についての記述でないが、資料の一つであるので、敢えて記述した。一枚の紙面が二分され、一方がオランダ語でほかの一方が邦文である。文面は宛名のほかは全く同文である。
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 オランダ人医師雇い入れのための石川県からの依頼書
一、当県金沢病院英学教師トシテ和蘭医員一名雇入度候付為其応接馬島健吉尊館エ
罷越候条同人協議上万事御門施ノ程御依頼申候也

  明治七年十一月十八日 石川県     石川県印

横浜在留
  和蘭国代辨領事館貴下
馬島健吉はスロイスを横浜港で見送った後、後任のオランダ人医師獲得をオランダ領事と商社とに依頼したものである。

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 ホルトルマンは来日したとき三十一歳であった。彼は教育と診療とに熱心であり、臨床では外科を得意とした。ホルトルマンの金沢到着日は、明治八年(1875年)七月二十七日(二十九日の説もある)である。いずれにしても、言語と生活習慣のまったく異なる土地に来て数日にして朝八時から十時まで講義をし、終わると午後は病院で診療をした。通常の人以上に職務に精励する人でなければとてもできないことであると思う。
 明治五年(1872年)~十八年(1885年)にかけて、明治天皇が多数の従者を従えて全国各地を視察される六代巡幸が行われた。天皇は地方の実情をつぶさに視察し、また民衆は初めて天皇を目にすることとなった。天皇は明治十一年(1878年)北陸・東海巡幸になり十月二日に金沢に到着された。天皇が医学所への御幸に際して、ホルトルマンは”職務勉励奇特の者”として謁見を許され縮緬一疋を下賜されている。
 ところで、ホルトルマンの講義内容を筆記したものが市立図書館に保存されていると聞いている。
 主要なもの
 一、基礎医学 十九冊
 二、臨床医学 二十二冊
である。
 ホルトルマンは三年十か月間の金沢での生活の間に三人の娘を病気により失った。その三児の墓が昭和三十四年(1959年)卯辰山の道路工事の際に発見され新聞に報道されたという。