作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真
編集:刈本博保
古き金澤

『卯辰山のホルトルマンの家の墓について』
 
二、ホルトルマン家の墓

 しかしそれ以前の昭和二十六年(1951年)に原富吉氏(材六町会の加戸誠一氏の友人)が、旧鳥居亭の後ろの畑で周囲の雑草を刈っていた所、墓石が三,四個出てきた。一番上にあった石に横文字が書かれていたという。墓石の形はありきたりの形であるのに銘文だけはアルファベットで刻んであった。墓を見た旧鳥居亭の老主人は即座にこれはホルトルマン家の墓であると答えたという。この辺の土地は明治六年(1873年)の太政官の火葬禁止の布告により、土葬のための墓地となっていた。火葬の禁止は二年後の明治八年(1875年)に解けたが、この辺は墓地であった。
 エリーゼ・エベラルドウスの誅の文中に「御屍をし 大日本の国 石川下 加賀の国 卯辰の山の 此の処に 納めまつらんと」とある。天神橋から山上に上る途中の中腹に遺骸を埋葬し、その上に墓が建てられたという。この場所が最初に葬られた処である。明治四十三年(1910年)に卯辰山を公園にする計画が進められると墓は末広墓地に移された。その時無縁の墓はそのまま旧地に残った。この場所にホルトルマン家の墓があることは当時の事情に詳しい人々は知っていたようである。
 本の埋葬の地を先年オランダ大使ヨアン・カウフマン氏が二度流転した墓石のためにその埋葬地を購入しようとしたが、すでに家が建てられているために断念した。大使が掃墓した時は、墓石は末広墓地の入り口にあり、道を挟んで解剖体墓地に対して建っていたという。平成になって墓地の整理が行われた時この墓石は無縁墓の棚に移されずに、有縁の人の墓地に移され現在の場所に建っている。これはホルトルマン氏の功績を敬慕する岡部佐武郎氏が親族同様に墓を守る身元引受人となったので無縁になることから免れた。
 墓は当時では普通の形であるが、丸に三の様な家紋らしきものが墓の最上部に刻まれている。ローマ字で横書きの墓は、墓地を訪れる人の目を引く。文字を刻んである石は原石のままで、他の石は後で修復したものと思われる。私が先日訪れたときは墓石の周囲は新しい御影石で囲まれて整地され墓石の横に「ホルトルマン愛児碑」と刻んだ御影石の石柱が平成十四年十月十全同総会によって建てられていた。また墓石に刻まれている字も平澤一氏が加戸誠一氏と共に調査された平成五年八月頃よりも墓石の文字が少し風化が進んでいるように思われた。現在建っている墓石の下には骨はないと思われる。最初に埋葬された場所で、骨は土壌化していたと考えられる。

碑面の最初の行は「奥津城」、 また下四行は「逝去/於18□□□6及77/A・ホルトルマンの愛児達」と読む。欠落した年号の三字目は「7」である。これはエリーゼの祭文に明治九年(1876年)とあるので明らかである。
 我々の解析では□□□は757ではないかと推定した。そこから第1番目の仮説としてMARIAは1875年に洗礼も戴かず産後の肥立ちも悪く、幼くして1875年に死亡し、ELSE EVERARDUSは1876年に数え5歳でコレラで死亡し、MARIA EVERARDUSは1877年に死亡したのではないかと推定される。またMARIA ENのENは1行違いで誤植されたものと推定した。第2番目の仮説として757の推定はそのままだが、3女と長女の名前がなぜ同一なのかと考えた。そこで、ホルトルマンが来日した1875年に長女のMARIAが死亡し、翌年ELSEが死亡し、その間に妊娠した3女が産後の肥立ちも悪く、幼児で死亡した。すなはち長女を偲んで3女にMARIAと命名したのではないか。しかし幼くして死亡してしまった事や金沢に彼が信じるキリスト教会がなかったことにより洗礼もないのではないかと推定する。しかし名前の順が3女、2女、長女の順になっているのは、死亡順ではなく子供を若い順に並べたことによるものであろう。