浅野川大橋の袂の主計町に建立されている「乃木将軍と孝子辻占い少年」の碑














































作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真
編集:刈本博保
古き金澤

『 我が家の逸話 』

 日露戦争当時の乃木大将と金沢に関しての話を従兄弟から聞いたことがある。
日露戦争(明治37年~38年(1904年~1905年))頃のことである。私の祖先は材木町4丁目32番地で老夫婦と母子4人で菓子屋を営んでいた。その一人息子は乃木大将率いる第3軍の第9師団に所属し、旅順攻撃および奉天包囲大作戦に参戦し、造化屯の激戦でロシア軍が降伏するわずか3日前の明治38年3月7日に戦死した。
 ところで、日露戦争以前でも乃木大将は時折金沢に来られていたらしい。金沢では「乃木将軍と辻売りの少年」の話が戦前映画や浪曲の題材にもなった。今越清三郎は明治16年(1883年)主計町で生まれ幼くして死別、祖母と弟妹を養うため昼は魚、夜は辻占(くじ引きの菓子)売りをして貧困な生活を支えていた。清三郎が8歳の時、たまたま金沢を訪れた陸軍大将乃木希典と巡り合い、激励を受けたことで発奮しやがて金箔師として大成した。そして昭和41年(1966年)彼の作品が無形文化財に指定され、昭和49年(1974年)に91歳で亡くなった。その後昭和54年(1979年)3月18日に浅野川左岸主計町入口に氏の遺徳を偲び「乃木将軍と孝子辻占い少年」の碑が建立された。
 また、乃木大将は日露戦争後でも金沢に来られていたらしい。ある日その菓子屋へ乃木希典大将が訪ねて来られるとの知らせが入り、家内一同大変驚いたという。家に来られても格別のもてなしもできず取敢えず”おはぎ”でも作って差し上げることにした。しばらくして、乃木大将が家に来られ、挨拶の後に「何もお構いできませんが、せめて”おはぎ”でも差し上げたいと思います。”半ごろし”にしましょうか、それとも”みなごろし”にいたしましょうか」とお尋ねした。ころすという言葉は戦場において使用されるものであり、民間では使用されない言葉なので、乃木大将は一瞬驚きになった。家の者はすかさず言葉の意味を申し上げ理解していただき、失礼したことをお詫び申し上げた。そして”おはぎ”を作って差し出すことが出来たそうである。
 先の大戦ではシベリアに抑留された方々は相当な苦労をしておられる。日露戦争の終結後ロシア軍の捕虜が多数日本へ連行されてきた。その一部が金沢にも来た。捕虜が金沢市内に出ることも許可されていたので、金沢の人達の捕虜に対する待遇は非常に寛大だったと思われる。どのような経緯か聞かなかったが、ある時に家の者が捕虜の兵隊に”筍”の煮たのを食べさせたら、「美味い、これは何というものか」と聞いたので、「これは竹の子だ」と教えた所、「それではこの竹の親を食べたらもっと美味いだろうなあ」と言ったそうである。これらの話は笑い話の様であるが、時代背景を考えると真実性を多少帯びたことになると思うがいかがであろう。
 最後に、乃木大将は日露戦争について、次のように詠んでいる。
  皇師百万 強虜を征す
  野戦攻城 屍山を作る
  愧ず 我なんの顔あって父老を看ん
  凱歌 今日幾人か還る
この漢詩から感じられるのは、乃木大将が戦争において多くの犠牲者を出したことを申し訳なく想い、心を痛めていることが分かる。日露戦争後、金沢へ来られた折に、兵士の遺族を訪問されていたのかもしれない。