金沢城









 兼六園



 天神橋



 梅の橋
作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真














    大獅子の頭















  大獅子の口の中












古き金澤

『 大 獅 子 』

はじめに

 材木町六丁目も、時代の流れと共に随分変遷があり、私達の子供の頃とは、町並みや住民の状況などが変ってきております。平成十三年九月、町内の歴史を後世に少しでも残したいと思い、石黒敏雄氏、加戸清一氏と私三人で、不馴れながら「材木町六丁目の歴史再発見」(資料編、第二部、第三部)を小冊子ですが作成しました。その後、内容について検討する箇所があることに気付きました。その中の一つに、材木町六丁目、材木町七丁目(現、橋場七友会)共有の獅子頭及び付属品について、詳しい資料は当町内には残っておりません。また、獅子に関して知っている人もいなくなり、関心のある人も少なくなりました。将来、材木町六・七丁目共有の獅子が、まったく忘れられてしまう懸念もあります。ここに、私は獅子頭及び付属品について調査し、関係する資料を集めて、次の世代に伝えたいと思い、筆を執った次第です。

一、獅子及び獅子頭について

(一)獅子の由来

この獅子は、舌の奥に、萬延元(かのえ)申年(さるとし)八月、京屋藤吉作の刻銘がありました。また、獅子頭などを納める長持ちの蓋の裏側に、次の通り墨書がありました。
        萬延元年申九月吉日
                清水屋宗太郎
        世話人    越中屋吉三郎
                大塚屋又三郎
                研師庄太郎
                縫屋文太郒
                五ケ村屋藤次郒
                水上屋善助
        頭取      竹俣屋和助
                五ケ村屋茂十郎
                疊屋善兵衛
と記されております。(1)
 萬延元年九月(西暦一八六〇年)大獅子を購入して以降、近年に至る間の資料は見当たりませんでした。
 氏神の久保市乙剣神社の春秋の祭礼(春:五月二~四日 秋:十月二~四日)には、材木町六丁目と材木町七丁目が、一年交代でそれぞれの町内の家に依頼し、獅子を飾って町の人々に見せました。(2)
 平成十七年、町内の笠瀬文雄氏の家内を整理中に、材木町六・七丁目共有獅子の目録と管理に関する取り決めを、一枚の木版に墨書されたものが発見されました。(3)獅子の目録や展示については以前から慣習的に受け継がれてきましたが、何か問題が起きて、改めて相互に確認するために、作成されたものと、推察されます。
 獅子舞や付属品は、使用すれば、損傷するのが当然で、修理、新調、補充が必要になります。例えば、大正十二年十一月に、材木町六・七丁目の有志のほかに三名の人が寄付金を出し合い、金沢市からも補助金を受けて、修理をした記録があります。(4)
 大正十三年十一月十日、東宮殿下(後の昭和天皇)行啓の砌、前田侯爵の勧めで、金澤市の獅子舞が、御駐泊所において臺覧に供せられました。その際、金澤市では、臺覧獅子を抽籤で七区の中から選ぶことになり、第一區、第四區、第七區が選ばれました。第四區では、材木町六・七丁目共有の獅子が代表となり、他の町会からの援助も受けずに、独自で獅子舞を無事演じました。
 その際、皇太子殿下から賜った御下賜金について、第四區の獅子を保有するある町会から、御下賜金は、第四區全体に賜ったものであり、材木町六・七丁目だけのものではない。よろしく、第四區のすべての獅子に配分すべきである。という提案が出ました。材木町六・七丁目では、光栄ある臺覧に揉め事が続くことを避けたい配慮から配分の要求に応じ、穏便に解決しました。(5)(6)
 
当時の北国日報(大正十三年十一月二十一日)に次のように書かれています。
『光栄を獨占した材木町の獅子
   四聯区を代表して出た
      然し真実は全 獨りに歸す
 皇太子殿下が地方行啓の折に、前田侯の発意から金澤市の名物として獅子舞を供し、由緒ある獅子の事だからどれどれを選定すると言う事も至難なために、各聯區から抽籤を以って三組だけ出すこととなり、その當たった聯區では區全体で完全に一つを出そうと、區は一町のものを其の儘に出そうと、それは聯區にまかした。
 そこで、抽籤の結果は、第一區、第四區、第七區の三つに當った。第一區の如きは獅子舞の囃子は、西郭の一流處の()(ども)が此の光榮たる任務に就くことを一代の榮譽として、花代なしに参加を申し込み、此の点に於いては他の獅子に負けないものであったとの評だが、第四區は、材木町の獅子が出て、同町のみで全部を引き受ける事となり、中囃子の如きも、特に主計町から花代をつけて雇ふたと言う位であるが、其後、畏きあたりから酒肴料として獅子に金一封下賜されるや同區のある獅子の如きは『此御下賜金は、いずれも材木町の獅子に下されたものでなくして第四聯區を代表して出たものだから、其の御下賜金はたとへ他のでなかったとは言へ四聯區の獅子全体に賜ったものなるを以て吾々にもその光榮を頒かつべし』と材木町の方へ抗議を申込たるより、事は大変面倒となり、しかも光榮ある処のこの問題に若も批難が出ては遺憾であるとし穏便に酒肴をそへてそれらの申し込みに對して返答したそうだが、果たしてそうとすれば材木町の今回のやり方は非常に美しい態度であって、これに始めて光榮の臺覧をひとりでねらったる獅子として大いに将来ほこり得るものであり、獅子と共に材木町の有志諸氏のやり方を褒めぬものはないと専ら同區内で伝えられているところの噂の儘を・・・。』
 臺覧獅子舞を演じた材木町六・七丁目では、祝賀会を催し町会各戸並びに市会議員に記念品を贈ったとの記録が残っています。(5)

(二)獅子舞

 獅子舞が祭禮には町を練り歩いたようで、文献『獅子頭』に次のように書かれています。昭和一四年八月の地元新聞に当獅子について以下の記事が載っています。
『約八〇年前より春秋の二回の祭禮に城下を練り歩いた大獅子がある。この大獅子は蔓延時代の名工京谷藤吉氏の作になったもので、当時の町世話人、清水屋宗太郎、越中屋吉三郎、大塚屋又三郎、研師庄太郎、縫屋文太郒、五ケ村屋藤次郒、水上屋善助、竹俣屋和助、五ケ村屋茂十郎、疊屋善兵衛等によって初めて城下を練ったもので、大正十二年十一月十日、東宮殿下行啓のみぎり、金澤市内の代表獅子として御駐泊所において臺覧を賜った光栄の歴史を有している。』
 明治以降春秋の祭礼及び招魂祭等には、城下町を練り歩いています。(7)(8)
当時の獅子舞の様子は、文献『金澤對語』の獅子舞及び祇園囃子によれば
『市中各神社の秋季祭禮には、武士町以外の氏子の各町から餘興に獅子舞や祇園囃子等を繰り出してゐたが、その獅子舞は今尚行われてゐる。獅子頭は木彫で大きなのは二尺立方もあって、革または色羅紗で包んだのと、黒漆で塗り金箔を附けたのと、木彫そのままのと、あってその中でも油車町の頭は名工武田有月が作り百姓町の頭は澤阜匪石が作ってゐる。また有名なのは大衆免の獅子、石引町の皮獅子などである。獅子の胴体は長さ約五間幅四間許すで、麻布を數弾に縫ひ合せ、袋の条にして牡丹花などの模様を彩色で染め出し、割竹を曲げて胴張りにし、後方に赤(ちょ)を垂れて尾とす。これを獅子の蚊帳といふ獅子頭を捧ぐる者一人、その左右に若いもの十人許すは、胴の縁に取り付き胴の中に太鼓・笛・三味線などの囃子に合わせて松の名所などの歌を歌ふて市中を練り回り、四、五人の棒ふりがゐて技を演ずる時に棒・木刀・木劒・長刀・鎖鎌の武器を持ちひ、一人又は二,三人にて演じ獅子頭を持つものは、その頭を上下左右一進一退とともに、棒振りと呼吸を合わせての舞姿は極めて勇壮である。他地方の獅子は、獅子自身が嬉戯するの型をなせど金沢のに限って獅子を征服するので、ある因にいふ藩政の時棒術は春日神社の下にいた浪人土方氏が代々教えていて、獅子の棒ふりも土方へ弟子入りして習ふたといふ。祇園囃子の行列の先頭に屋臺をつける。それは前六尺横三尺高さ六尺の木組の小屋の様なもので、上に青白市松格子の紙張り障子二枚を屋根形に載せ、前横に高さ三尺の垣を廻らし、屋臺に幔幕を張り、提燈を吊り、中に大小の太鼓を置き、妙齢の女兒盛粧してこれを撃ち三味線・胡弓・尺八・笛などの囃方男女打ち交わってこれに従ひ、みな編笠を被り別に踊り子あって各處に踊る。この外の餘興に彌彦婆(やひこばば)座頭(ざとう)・十二(つき)・大名行列・桃太郎鬼退治・狐の嫁入り・願念坊の類あって、總じてこれをニハカといふ。中にも十二月は年中行事を模擬した滑稽なもので、小立野で催すのが有名であった。大名行列は藩主が江戸参覲を終へて歸国する行列に模したもので、堀川全体の催物であった。祭禮には所々に旗や幟を立てた。その流れ旗は布三幅長約三十尺神號、若しくは他の對句を書いた幟の布製のものは幅六尺長二十四、五尺あって、武者若しくは花木の類か、文字を書いた中には名家の画いたのや、書いたのがあった。また各町毎に太鼓を枠車に載せ、児童はこれを曳きこれを打ち鳴らす。この太鼓も他の地方にない』
 廃藩の後、年毎に祭禮は寂れ餘興を催す事もまれになって以前の如き殷盛を見るをえないが、獅子舞は再度までも皇太子殿下の臺覧を辱うし、太鼓は大正4年御即位大典の最終日に市中全部のものを出羽町練兵場に集めた。その數は無慮5百餘個に達し、これを打ち鳴らしつつ市内大通りを練り迴った。また、旗や幟も各町に電話・電信・電気等の柱が立ち、線が架かったため今は無となった。また、各戸に繪行燈を出すことも處によって行われてゐるが獨り近江町の大繪行燈はいまも昔のように春秋の祭禮にだしてゐる。
 また、『民俗民芸 双書95祭と民俗』には、加賀の獅子舞について、次のように書いています。
 「石川県は加賀・能登の両地区よりなり、其々地理的・歴史的にも民族文化に相違がみられる。獅子舞においても同様で、かなり顕著な差異が存するのであるが、遺憾ながらいまだ十分な調査がなされていないのが実情である。
加賀の金澤市を中心として行われてきた獅子舞は全国的に見ても特徴があり、石川河北の両郡内にも広く分布するので、加賀の獅子舞を代表するといっても過言ではあるまい。特徴の第一は形態上にある。大きな獅子頭(中には五十センチ立方以上、重量十六キロを超えるものもある)と胴体に当たる巨大なカヤ(牡丹と獸毛模様を染めた麻布で全長八メートル、高さ四.五メートル、幅三.五メートルという大きなものもある)その内部には多数のナカバヤシが入って三味線・笛・太鼓などをはやし悠然と町を練って行くのである。獅子に對するものを棒振りといふのであるが、その棒振りが、六尺棒をはじめ、太刀、長刀、鎖鎌・剣等を取って獅子に挑み闘って退治するのである。棒振りが一人の場合は一人棒とよぶが、一人の場合だけでなく、二人・三人から五人、時には七人の棒振りが一緒になって獅子に對する事もある。しかし獅子は胴体をほとんど動かさず、獅子頭だけを上段あるいは中段・下段に振って棒振りに対応し睨みをきかす。棒術をはじめ剣術・柔術などの武術を応用した型を持って獅子に向かい、演技の種目毎に最後はヨイヤーと叫んで獅子にとどめを刺すのである。かように獅子を退治するのであって、“殺し獅子”が加賀の金澤における最大の特徴となっているのである。私は最近加賀の獅子舞について長年の研究の一端を発表し、特に金澤獅子の棒振りに関し、その半兵衛流の伝播を中心として論考するところがあった。
 棒振りの流派は、半兵衛流が主として金澤の左岸地域から南部、さらに石川郡内の農村部(松任市・野々市町、鶴来町)に広く流布してきたのに対し、金沢の浅野川流域及びその北部(金沢市北部および河北郡津幡町)は土方流・柳川流を伝承してきた。このほか出雲流・玉田流をはじめとして盛時は四十余流を数えたという。かって金澤の旧市内では八〇ヶ所以上の町内で獅子舞が行われたという。しかし近年は旧市内ではほとんど見られず、近郊の農村地域で行われるだけとなった。昭和五十五年三月には加賀獅子保存会が再発足して獅子舞の伝承・普及に努める事となったが、都市部における民俗芸能の振興は困難となって来たのである。
 獅子舞を出すためには最低五十~六十の人員のもとに一カ月近くの稽古を要し、これに伴う経費も巨額に達する。かって獅子舞を支えていた町内の青年はサラリーマンとなり、食住は一致せず参加が困難になって来た。また久しく獅子舞を中断した空白は、住民に獅子舞に対する理解を困難ならしめた。その間住民構成は大きく変化し、旧来の住民が減少して地域の連帯感も希薄化してきた。かような不利の条件が重なりあう現状では、旧市内における獅子舞の復活は至難とまで考えられていたのである。しかるに昭和五十六年の秋祭りには、金沢市の東南にある上野町(小立野三丁目)では二十八年ぶりに復活して世の耳目を引いた。また金澤市の中心部に近い犀川右岸にある上伝馬町をはじめとする八カ町(片町1丁目・中央通りの一部)も予想された困難を克服して時代に即応した運営をもって盛大に獅子舞を行った。さらに二年後の秋祭りには金沢の南端の泉新町(泉二・三丁目)でも二十九年ぶりに見事に復活するところがあった。いずれも町内に伝承して着た民俗芸能の復活に情熱を有する人々が中核となって推進し、これに地域の実情に適応した獅子舞を演出して成功を見たもので、かような条件を具備するところは、さすがの金沢といえども少ないであろう。材木町六・七丁目の棒振り役は、その都度雇っていたようです。獅子舞の決算書の中で棒振り連中にお礼を支払っています。(5)(8)