<高岡市 中央町>








「瀧の白糸碑」
昭和31年4月片原中島町の奥にある稲荷神社の境内に高岡文化連盟が建立した。碑は現在は中央町ポケットパーク内に移設された。
御影石。4面荒削り仕上げ。
(正面)瀧の白糸碑 
     喜多村緑郎書
(左側)昭和31年之建
(右側)刻字なし



















「瀧の白糸文学碑」
昭和32年4月高岡文化連盟によって、片原中島町に建立されていた、この文学碑がポケットパーク内に移設された。

<金沢市 並木町>



梅の橋 「瀧の白糸碑」
平成3年8月頃、上記写真の場所から梅の橋の袂に移設された。

作者:高木勇藏
所在:金沢
経歴:街の歴史研究家
趣味:植物栽培、写真
編集:刈本博保
古き金澤

『 幻の瀧の白糸像 』

 戯曲「瀧の白糸」泉鏡花の作品「義血侠血」を川上音二郎が無断で「瀧の白糸」と改題し、浅草座で上演した。これが、鏡花作品の初の劇化であったが、師匠の尾崎紅葉が激怒した。しかし、鏡花は自作の年譜の中には、この事について一切記載していない。ところで、現在上演されている「瀧の白糸」は久保田万太郎の台本が基本になっている。 
 乗合馬車の馭者の若い村越欣弥と当代随一の水芸人で「瀧の白糸」と言われた水島友が、高岡から石動間を走る乗合馬車での出会いから始まる悲恋物語である。乗合馬車の待合所は高岡市の片原中島町の稲荷神社付近にあった。
 乗合馬車の会社と人力車との間には、速さや運賃等の紛争が絶えなかった。高岡を出発した乗合馬車は人力車に追い越されてしまった。そこで馭者は一頭の馬を乗合馬車からはずし、友を引抱えてひらりと馬に跨り、馬を走らせた。途中気絶してしまった友を石動の茶屋の老婆に介抱を頼み、乗合馬車の元に帰って行った。そして、乗合馬車を石動へと走らせた。友は自分をここに連れてきた人は誰かと茶屋の老婆に尋ねたら、金さんとだけわかった。この事が会社に判明し、欣弥は解雇された。
 恋心が芽生えた友は、後日金沢の浅野川に架かる天神橋の上で、眠っていた欣弥に遭遇し、あなたの出世のためなら私に援助させてほしいと懇願する。一度は辞退するが、友の願いを受け入れる。欣弥は友からの仕送りを受けながら、東京で法律の勉学に励んだ。
 ある夏の夜、兼六園で強盗に遭った瀧の白糸は園内の貸席業の富裕隠居夫婦を殺して金を奪ってしまう。その後、瀧の白糸は裁判にかけられ現われたのが、検事代理になっている愛しい村越欣弥であった。判決は死刑となり、この恋と恩義のため欣也自身も自決してしまう。
 この戯曲を顕彰して、昭和22年7月金沢の浅野川(おんな川)に架かる梅の橋の袂の左岸に、泉鏡花顕彰会により瀧の白糸碑が建立された。そして、昭和25年頃に石碑は天神橋の袂の左岸に移設された。
 片町通り木倉マーケット内に、金沢の名士たちが集まる居酒屋「直美」があった。女将さんの名は上田律子(旧姓小林)さんと言い、酒を飲むと「わたしが瀧の白糸のモデルよ」とよく言っていた。実は昭和27年頃、その名士たちの仲間内で瀧の白糸像を建立しようと言う話が持ち上がり、秋田美人の女将に白羽の矢が当たった。それから、金沢美大の髙井四郎先生のアトリエに通い、セメント造りの瀧の白糸像が完成した。像にはブロンズ色の塗装が施された。
 これを知った金沢観光協会や浅野川振興協会も協賛を申し入れ、浅野川に架かる梅の橋と天神橋の中間で左岸に、台座から合わせると約3メートルの立像が建立された。その際、瀧の白糸碑も天神橋の袂から瀧の白糸像の近辺に移設された。舞台衣装を着た瀧の白糸像は、胸にあてた右手に村越欣弥への想いをこめている。
 2,3日前から降り続いている雨は降りやまず、浅野川の水流は増すばかりである。昭和28年7月8日10時から始まった除幕式で、上田律子さんは瀧の白糸の舞台衣装に着飾って主役を務めた。また、瀧の白糸像の前ではラッキーカードや餅まきが行われた。その日は一日中雨が降ったが、夜ともなれば白糸茶屋の店先からライトアップされた瀧の白糸像の影が浅野川の川面に妖艶に映えた。
 それから、一ヶ月半余り、昭和28年8月24日金沢が大水害に見舞われた。屈強な天神橋が破壊され、梅の橋も流された。河岸にあった瀧の白糸像も無惨にも打ち砕かれ流失した。そして、昭和33年11月上田律子さんは不慮の事故がもとで他界された。
 当時から今も残っているのは3個の大きな石と梅の橋のたもとにある瀧の白糸碑だけである。