ビル・ゲイツさんと語る日本、未来に寄せて
1、はじめに
1995年1月17日阪神淡路大震災では死者6434名、行方不明者3名、2011年3月11日東日本大震災では死者15,880名、行方不明者2,694名の大被害が発生した。またスマトラ沖の大地震では東南アジア各国に被害が広がり10万人以上の犠牲者が発生した。この状況を見るにつけこれだけ科学技術が発展しているにもかかわらず、その被害を食い止めることが出来ないのは何故であろうかと思う。自然との共存の仕方、または自然との闘いに不十分なところがあるのではないか、毎年繰り返される自然災害の被害を防げないのは何が原因であろうか。
また、広島市内の土砂災害被害についても報道されている状況を見るにつけ他の町も同じような自然災害が予測される。広島市では3,000人の人達による72時間以内に人命救助をしたいという懸命な作業が続けられた。それでも現状の自然災害に対する対応では不十分と言わざるを得ない。
災害救援隊等の派遣には現在は3日間以上を要するけれども、それを24時間以内にできるようにしたい、そのためには住民の協力と災害予測精度の向上、自然災害発生時前からの体制の拡充、IT等の科学技術の多面的利用および災害救援隊の迅速な派遣等々が必要である。
2、人命救助は時間の問題
自然災害から救助するためには時間刻みではなく分刻みの対応が必要である。阪神・淡路大震災の多くは瓦礫の下での圧死であった。そして生存者は72時間以上経つとほとんどゼロ近くになっていた。すなはち、自然災害が発生してから、3日以上経過した後の救助は労多くして虚しさだけが残る、死体収容の時間だけが長期間続くということになる。勿論、2次災害を十分考慮しながらの救援活動が必要であることは言うまでもない。東日本大震災時も凍える手で3日間電信柱にしがみ付いていた2人のうちの1人が、救助された時の気持のゆるみで心臓麻痺で死亡してしまったという話も聞いている。報道機関のヘリコプターが、報道を優先したために救援活動が阻害され、救助が遅れたという話も聞いている。統計データでは災害による倒壊家屋等からの人命救助の場合、災害発生から72時間が経過すると生存率が急激に低下する結果が出ている。主な理由は脱水症状と説明される。人間が水分を取らずにすむ限界は72時間であり、天候も大きく左右する。低温で水にぬれた状態が続けば、低体温症となってさらに厳しい状況となる。他の理由として救助までの時間を要すると、瓦礫の下敷きになった四肢が長期圧迫で筋細胞が壊死し、圧迫から解放された後に血液中に大量に漏出して急性心不全を起こすクラッシュ症候群が説明される。
ところで市や県の危機管理課を尋ねて危険度予測地図をいただいた時も、市の体制を整えて救援活動を開始するためには3日間かかるといわれた。これでは、ほとんど死体収容のための活動になってしまい市民の生命を守る活動にはならない。
また来年春からの北陸新幹線で東京と金沢が2時間30分で接続されるに伴い、外国人客を含め多くの観光客が来沢するのが期待される。しかしもし観光中に自然災害が金沢で発生した場合、その人達から一人の犠牲者も出さないということは現状では保証できない。最悪の条件で大雨が降っている、深夜、地震が来て山崩れや洪水や火災が発生した場合、どのようにしてその人たちを誘導するのであろうか。特に高齢化の限界集落になった町で市民は何ができるのだろうかと考えてしまう。ニュージーランドで起きた地震により、北陸三県の若い英語研修生が無言の帰宅を余儀なくされた結末を北陸の人であればだれもが知っているであろう。他国の人達にその事前対策の不備を叱責することはできないが、すくなくとも観光客は事情をよく知らないのだから、生命を安全に帰国させるのが金沢市民の責務ではないだろうか。金沢に観光に行った家族が不帰の人になって帰ってきたとなれば金沢観光の評判もガタ落ちすることになることだろう。我々は“観光客を含めて自然災害で一人の犠牲者も出さない”と決意し、常日頃から準備をしておくことが大切である。
3、東日本大震災の報告
私の数十年来の2人の友人は仙台の若林地区に住んでいる。東日本大震災から2か月後の5月7日、8日に私は友人宅を訪問した。1人は大津波で家を流され、幸いにも家族には被害がなかったが、若くして亡くなられた奥さんの「想い出のもの」がすべて消失してしまった。「想い出」を失う悲しみは家を失うより深いとしみじみと語っていた。もう1人の友人の家の手前まで津波が押し寄せてきたが、家族全員は無事であった。彼は当日インドネシアの留学生を仙台空港に送っていった時地震が来た。途中の交差点で津波警報が発令されたということで、警察官にUターンを命じられ、危機一髪で回避できた。ちなみにその警察官は津波に呑まれて殉職されたそうである。また当日、彼の妻は閖上地区の従妹の所で法事があり、そこに行く予定であったが、当日朝、急用が出来ていけなくなり明日行けばよいと言うことになった。もし、参加していたら従妹同様津波に呑み込まれて生きて戻れなかったろうと話していた。ちなみに従妹の遺体は2カ月過ぎて発見された。そのときは被災者証明書がないと被災地には入れないが、彼に閖上地区から日和山そして仙台空港まで案内してもらった。彼は町内会役員で、遺体を確認しなければならない立場にあったため1000人の遺体を見てきた。家族は無事であったが、親類・縁者、幼友達が犠牲になり、「本当は、現場に行きたくない・・・」と私につぶやいた。日和山から有料道路までの2KMの帯の間には家が全くなく、かろうじて残った家の2階に船や乗り合いバスがひっかかっていた。また、海岸線の左右数十KM先まで、鉄骨を残した工場はあるが家が何もなく家の土台だけが残っていた。「何もない。無惨としか言いようがない」と思った。私は持参したカメラで写真を撮ることをはばかれた。今にも老人や子供たちが談笑しているかのような錯覚に陥ったからである。阪神・淡路大震災の現地では倒壊した家屋がそこにあったが、この津波の現場には何もない。以前写真で見た原爆投下後の広島・長崎、東京大空襲の跡に似ていた。津波の時、5M程の高さの有料道路に登れた人は助かったが、力尽きた人は生きることが出来なかったらしい。現場では地震直後から停電になり、河北新報の号外は2日後に届けられた。TV、ラジオ、PC、携帯端末も状況を把握するには役に立たなかったらしい。自動車のカーラジオをかければよかったと後で彼が気がついた。「いつも使っていないものは緊急時には使えない。いつも使っているものしか使えない」もっぱら情報は避難先の口によるコミュニケーションであった。
翌日私は松島の瑞巌寺の被害を視察に行った。ここは島々が配置されていて風光明媚な観光地であるが、津波の被害はそれほどでもなかった。しかし、島々で生活している人には多大な被害があったらしい。瑞巌寺は海岸線から50M程入り込んだ所に山門があり、山門横の売店で津波の被害を聞いたところ、1.2M程の津波が来て商品は流されてしまったが人身事故に遭わなかったと言っていた。配置された島々が津波の力を緩衝させたらしい。
ところで報道によると、440の保育園の園児が保母さんと行動を共にして、その命を助けられた。保母さんは、津波警報が発令されたら愚直と言われようが、高台に園児を引導する訓練を日頃からやってきたらしい。たくさんの園児をみるために鵜飼の鵜匠のように、何本もの紐で園児の手を結んでいたらしい。また、自家用車に19人もの園児を乗せて避難したという話もあった。園児は園児で保母さんに身も心も預けたために、観音様の慈悲にすがれたのかもしれない。また老人で自分はどうでもよいので逃げませんと言う人がたまにおられるが、こういう緊急時は安否確認に来てくれた人に従うべきである。「遠くの親戚より近くの知り合い」が命を助ける。
実際、津波は30分ごとにやってきて、第1波、第2波はそれほどでもなく、第3波がものすごく大きかったらしい。地震発生から1時間半後の4時6分頃である。壮年の人が、寒いと言っているお年寄りのためにストーブや衣類や食料を確保しようと帰宅して被害にあったとも言われている。
陸前高田市の津波に対して斜めに構築されていた古い防潮堤は破壊からまぬかれ、垂直に構築された新しい防潮堤は崩壊した。津波が5KMも溯ることを想定していなかったらしく引き波で盛り土を持っていかれ崩壊したらしい。しかし「この石碑より下に家を造るな」という村では、被害者を出さずに済んだ。
このように自然の摂理を見極め、それに立ち向かうだけでなくその性質を利用しながら、愚直に行うことが求められているのではないだろうか。
気仙沼では港の燃料タンクが流失し、市街の多くを消失した。阪神・淡路震災でも現地の消防車は、消防署の周りを消火するだけで精いっぱいになる。消防署の想定では、大規模災害には対応していない。人員の不足、情報不足、設備機器の消失、水路の確保が出来ない等様々な問題を一度に抱えるからである。「従って外部からの支援なしでは広域の自然災害には対応できない。自衛隊の陸海空10万8千名が、今回の震災に対応し巡視艇も200艘あまりが救援に向かったといわれている。24時間以内に人命を救助したいということであれば陸路はがれき等で覆われているので、2輪車等の機動部隊が必要である。重機は空と海から運ぶしかない。空からの探索と救助しかないように思われる。
これからお話しすることが実現すれば、科学技術力と大規模な防災システムが実現して、自然災害で死亡者がゼロである技術を確立できれば、「世界一素晴らしい文明国になれる」と信じる。
4、自然災害への世界規模での対応
4-1)序
今回の東日本大震災の様に何万人もの犠牲者を出す自然災害が日本・世界では、度々起きている。今回の東日本大震災では想定外の津波になっているが、今から1142年前の869年7月13日に貞観地震と大津波が歴史書に記載され、地質学的調査でも実証されている。このような震災、風水害、火災などの自然災害を克服できない人類である一方、戦争、テロ等の人災が一向に終止できない現状もある。
4-2)目的
「災害は忘れた頃にやってくる」「備えあれば憂いなし」と昔から伝承されてきたが、スマトラ沖の大震災や阪神・淡路大震災でも想定外のことが発生し、多くの犠牲者を出した。果たして自然災害は、人類が克服できない問題なのか。しかし、台風などは衛星等で事前に進路を推定できるようになり、犠牲者数を大幅に減らす効果をあげている。また、地震についても地震速報が出され直下型でなければ、その対応手段が図られるようになってきた。また、「この石碑より下に家屋を造るな」という先人の教えを守ってきた村では死亡者を出していない。400以上の保育園の幼児が、先生の引率で避難できた。自然災害が毎年起きる自然災害国日本は、自然科学、社会・人文科学的に多くのデータを収集し、それを体系的に処理し、色々な技術を開発し、将来の自然災害に対する対策を日本で実施し、それを世界に発信できるのではないだろうか。そこで、自然災害を克服するための諸提案を行う。
4-3)方法
自然災害に立ち向かうためには、学際的な領域からアプローチし、そしてそれを実行していかなければならない。以下では、毎年実施すること、長期計画の下に実施すること、常時実施することを記載する。
1)世界合同慰霊祭の開催(毎年実施すること)
自然災害での犠牲者を偲び、慰霊する、その教訓を次世代に継承・伝承する、「将来の防災に向けた志」を確認するイベントとして、毎年5月1日とそれを含む週間に世界各国で開催する。 ①被災者の「かたりべ」が、*故人への弔意 *遭遇した時の状況 *自らの判断と行動 *組織的な対応 *避難生活の実態 *現状の課題 *将来への願いと志 等を講演する。
②自然科学、社会・人文科学者が、*防災研究の成果 *リスクマネージメント(現在実施していないことのリスク)*情報発信に対する心理的な面からのアプローチ *質的・量的変化に対するシミュレーション等 を講演する。
③政治・経済関係者が、*リスクマネージメント *組織マネージメントを講演する。
④防災訓練等を実施する。
※国際自然災害の日は毎年10月第2水曜日になっているが、May I help you?の気持ちが大切ではないかということで、5月の最初の日を国際自然災害の日にしたいと考えている。また、この日は北国では冬が終わり、春の息吹を感じる日である。童話「北風と太陽」の中にあるように、政治、経済、民族、人種、宗教、文化を超えて、寒い北風でなく暖かい春の風を送ることで、人間の心の憎しみを癒し、人間同士の「絆」を大事にする、そういう防災の日にしたいという思いを込めている。
2)国際防災都市選択とインターネット世界復興博覧会の開催(長期計画で実施すること)
4年毎に国際防災都市を採択し、それから20年かけて構築された国際防災都市の表現の場として、インターネット世界復興博覧会が4年毎に開催され、それを「防災オリンピック」と命名する。採択された国際防災都市では、社会・人文科学、自然科学、政治・経済関係者そして現地住民が約5年をかけて調査・研究・協議して、15年計画を提起し実施する。①港湾、家屋、構造物等を防災視点から設計・配置・整備
②情報リテラシーの構築
③住民の避難対応
④現地住民間のコミュニティ確立 等を推進する。
インターネット世界復興博覧会では、国際防災都市を開催地として、各国をインターネットで結び、防災情報の交換とインターネットドミノ(パソコンの中でのドミノ倒しをネットワークで結ぶ)等で人間同士の「絆」の連帯を確認する。また、住民の意識調査、リスクマネージメント(出来たこと、出来なかったこと等のリスクの確認)等の成果を、社会・人文科学者、自然科学者、政治・経済関係者が発表する。インターネット世界復興博覧会終了以降は、各国政府内での防災に対する見直しを継続し、地球規模の100年計画をまとめる。費用としては、数兆円規模になるが先進国が中心に支援する国際自然災害支援基金や当事国の国家予算から捻出する。
3)国際自然災害救援隊の設立(常時実施すること)
1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、6,434名が死亡され、以降PTSDの障害を持つ人が多発した。自然災害が発生してから、24時間以内であれば生存率も高く、時間がたつにつれて生存率が低下する。阪神高速道路が崩壊した近くの小学校でボランティア活動を手伝ったが、専門技術屋としての仕事はなく、救援物資の仕分け、薪割り、炊事そして若い人達とのコミュニケーションしかできなかった。もし日頃から重機操作などの訓練を受けておれば、もっと活躍できたに違いないと思われた。そこで、国連の基に軍隊でなく銃を持たない民間人の参加による、オスプレーやヘリコプター搭載の中古病院船空母を持ち、各国の要請に24時間以内に対応する国際自然災害救援隊を設立する。この国際自然災害救援隊は、軍隊・警察以外であれば職種を問わず、毎年1~2カ月集団で実地訓練を行い、
①地形学的な専門技術
②2次災害の予防技術
③情報管理
④重機・ヘリコプター等の操作技術
⑤IT機器の操作
⑥人命救助等を行う。
そして災害被災国の政府の要請のもと、24時間以内に現地に到着し、人命の救助に当たりまた応急の救援物資(衣食住)を届ける。現在のIT技術による腕時計型のGPS機能とヘリコプターからの探索機能から、位置座標を検出し、救助専門の隊員による救助活動が可能である。また各国の隊員は日頃から専門的立場で現地の地形学的な研究をしているので、その情報も利用できるものと期待できる。救助支援は1週間ほどで終了し、通常の巡回・監視業務に戻る。守備範囲は、2000KMの範囲であり、世界の自然災害国の周辺公海上に隊員が乗船し訓練しながら、自然災害の監視を継続する。その後被災地では、現地政府によるライフライン、交通機関の復興に当たるであろう。隊員には過去に被災した地域の人たちを優先に採用し、年間2カ月の有給の休暇を取ることを条件に民間や官庁と協議して世界で約百万人規模に持っていく。費用として、年間数兆円が必要であるが、国連基金で賄う。ところで戦争の費用は1~2年間で100兆円規模になり、すべてを破壊してしまいさらに憎しみの連鎖に陥る。しかしこの活動では人々の心の中に慈悲の心が芽生えて、人々に広がっていく活動である。戦争と比べると支出費用は非常に少なく、さらに人類を救うのに役立つと思われる。
4-4)考察
将来自然災害が発生しても死者・行方不明者を発生させない総合防災システムの一端を空母のヘリコプターが対応し、また、想定外の自然災害になる可能性があるので、「狼少年でない」警報システムやコミュニケーションシステムを合わせて構築する。また、国際自然災害救援隊は、軍隊ではないので、自然災害が発生した世界各国の要請に即座に対応し、24時間以内に人命救助にあたる。このような、活動を毎年国際慰霊祭の席上、または「防災オリンピック」に際し、訓練内容や内部の公開をしながら世界の人々にアピールしていく。
従来のイベントは、一過性のものが多く、20年計画とか100年計画のきっかけづくりとしてのイベントはなく、また、今後の活動・推進を助長するような機能も持っているものは少ない。今回提案した毎年開催する世界合同慰霊祭や20年計画の国際防災都市の選択とインターネット世界復興博覧会などは、人類の経験した英知を基にした国際的な拡がりを持つ活動であり、国際自然災害救援隊の活動と連動したイベントである。日本は戦後70年もの長きにわたって戦争も内戦もしてこなかった国であるから、ミサイル、大砲、艦載機をすべて廃棄した中古の病院船空母と人命救助のためのオスプレーやヘリコプターを持ち国際自然災害救援隊を支援することは、日本が世界平和への貢献に一石を投じるものとなる。そして世界平和を望む日本が、戦争には人を出さずお金で処理をしているという悪評をこれでぬぐいさりたい。
5、私は微力ではあるけれども努力をしたい
阪神・淡路大震災のボランティア活動に参加して、被災の現地では生きる事が精一杯で、そういう時は外部の大きな支援が必要であることを痛切に感じた。東日本大震災では十数万人の自衛隊、警察、消防、その他大勢の力が結集し、また米国の空母が多くの人を救助した。その姿を見て若者がその職業にあこがれを持つようにもなった。私も防災士・ホームヘルパーの資格を持っているので、事前の防災対策、現場での対応、避難所管理でリーダーシップを発揮したいと思っている。
もし、死者・行方不明となった二万人以上を全員救助できるような科学技術、社会・人文科学を日本が開発し実施していれば、世界に誇れる日本になったと思う。現在のIT技術やオスプレーやヘリコプターや空母の機動力があれば、私はこの企画を実現出来るのではないかと確信している。最後に、「単に生きているのではなく」、「(社会貢献のために)生かされている」のではないだろうかと、被災地で九死に一生を得た友人が語っていた。その瞳の中に一筋の希望を見た気がした。
金沢市橋場町8-1
刈本博保
Mail:contents@a-contents.com
TEL/FAX:076-225-7535
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With Mr. William Henry "Bill" Gates III , we talk about
Japan and that future.
1 Introduction
Hanshin Awaji big earthquake disaster happened on January 17, 1995. Victims
were 6,434 dead persons and 3 missing persons. Higashi Nihon big earthquake
disaster happened on March 11, 2011. Victims were 15,880 dead persons and
2,694 missing persons . Damage spread out in each country of the Southeast
Asia in the massive quake of the coastal waters of Sumatra. More than 100
thousand persons became sacrifices.
Though technology develops, I think why it is probably that the damage can't be stopped. Is there an insufficient place in the way of the coexistence with the nature and the battle with the nature disaster? As for not preventing the damage of the natural disaster repeated every year. What is a cause?
When a report about the earth and sand disaster damage of Hiroshima city
was seen, it is predicted that the natural disaster which is the same occurs
in other towns as well. The work that 3000 people did lifesaving within
72 hours was continued in Hiroshima City.I cannot but say that it is insufficient
by the present correspondence against the natural disaster. I want to do
that though dispatch such as a disaster rescue party takes more than 3
days at present so that it can do it within 24 hours. Inhabitant's cooperation
is necessary. The rapid dispatch of the many-sided use of the expansion
of the system from the front, the technology such as information technology
and the disaster rescue party are necessary at the time of the improvement
in the disaster prediction precision and the natural disaster occurrence.
2 Lifesaving are carried out promptly.
Rapid correspondence is necessary to do lifesaving from the natural disaster.
Most of the victims were death from pressure under the debris in Hanshin
Awaji big earthquake disaster. Then, when it passed for more than 72 hours,
a survivor was almost about a zero. In other words, there is much trouble
in the rescue after it passes for more than three days after a natural
disaster occurs. Only emptiness is left to us. It becomes only time for
the accommodation of dead body lasts for a long time. Of course, rescue
mission is necessary with taking the second disaster into consideration
fully. I am listening to the story as well that one person out of two people
died with looseness of a feeling that she was rescued with her heart failure.
Because someone gave priority to a report, the helicopter of the press
obstructed rescue mission. And the rescue was delayed more.The next result
comes out by the statistics data. When 72 hours pass from the disaster
occurrence, survival rate decreases rapidly in case of lifesaving from
the collapsed house due to the disaster and so on. A reason is explained
with the dehydration. Our limit which can live without taking water is
72 hours. We suffer from low temperature disease, and we will die if the
condition that it is wet in water at a low temperature lasts. When the
limbs are liberated from the pressure after a muscle cell dies in the long-term
pressure, Potassium leaks out in large quantities into the blood. It causes
acute heart failure. That is said as the crash syndrome.
By the way, I searched for the crisis management section of the city and the prefecture, and had a danger prediction map. At that time, they said that they take three days to prepare the system of the city and to start rescue mission. They almost become activities for the dead body accommodation, and don't become the activities which citizen's life is protected against.Tokyo and Kanazawa were connected by the super express Hokuriku Shinkansen in two hours thirty minutes, many sightseers come including the foreigner guest. But, it can't be assured that no victim is taken out from those people when a natural disaster occurs in Kanazawa. How do you lead those people when a heavy rain was falling on the worst condition and an earthquake came late at night and a landslide and a flood and a fire happened? I doubt what can be done in the town which specially has many aged people in the citizen.
Anyone in Hokuriku will know the conclusion when young English trainee
in three prefectures of Hokuriku died by the earthquake which occurred
in New Zealand. Because a sightseer doesn't know a circumstance well, it
is the duty of Kanazawa citizen to make them come back safely. The reputation
of Kanazawa sightseeing declines suddenly when the family went to Kanazawa
for the sightseeing died, too. We should decide "No victim is taken
out including the sightseer by the natural disaster in Kanazawa."
Then, it is important to prepare from usual.
3 The report of Higashi Nihon big earthquake disaster
My two friends for the past several years live in Wakabayashi area of
Sendai. I visited a friend house on the 7th of May after 2 months from
the day of Higashi Nihon big earthquake disaster. Though luckily it didn't
suffer damage in the family, one of the friends had a house washed away
with the tsunami. All the things of the recollections with the wife who
was dead before several years passes away disappeared from him. He was
telling that the sorrow lost "recollections" was deeper than
to lose a house.
All of the family were safe though a tidal wave (tsunami) was surging
to the front of the house in case of one more friend. An earthquake came
for them when an Indonesian student from overseas was seen off to Sendai
airport on the day. Because the tsunami warning was announced, a policeman
ordered a U-turn to him in the crossing of the middle. He could avoid the
tsunami riskily. Incidentally, that policeman was swallowed by the tsunami,
and died on duty.
A memorial service was held at the cousin of the Yuriage area on
the day, and his wife intended to go there. It was decided that she had
only to go tomorrow because she could do urgent business in the day
morning. If she participated, she would be swallowed by the tsunami with
her cousin. He was telling that she would not live. It passed from the
earthquake disaster for two months, a cousin's dead body was discovered.
When there is no sufferer certificate, we can't enter in the area. He
guided me from the Yuriage area to Mt. Hiyori and Sendai airport. He saw
the dead bodies of a thousand people because he was the officer of the
town and then he had to confirm a dead body. His family was safe. His old
relatives, connection person, a friend became sacrifices, and he muttered
"In fact, I don't want to go to the spot." There was no house
in the range of 2KM from Mt Hiyori to the toll road at all. The ship, and
the bus lodged on the second floor of the collapsed house. Only the base
of the house was left without that house, though there was a factory which
a steel frame was left when the right and left of the coastline were seen.
“Here is nothing ”,I thought that it was tragic. I couldn't take a picture.
I felt that old men and children would have friendly been talking at any
moment. Nothing is in the spot of this tsunami though there was a house
which collapsed in the spot of Hanshin Awaji big earthquake disaster. It
looked like Hiroshima and Nagasaki after dropping the atomic bomb which
I saw by the photograph before. The person who could climb the toll road
of the height 5M was saved at the time of the tidal wave. But, as for the
persons who couldn't climb it, they couldn't be alive.
It became a blackout right after the earthquake. The extra of Kahokushinpou
publishing Newspaper was delivered to the refugee after two days.
It wasn't useful so that a television, a radio, a PC and a hand-held device
might grasp the situation of the small area. He considered later that he
had only to turn on the radio of the car. What isn't always spent can't
be spent in an emergency. Always Information was a communication by the
mouth of a place of a refuge chiefly.
I went for the inspection of the damage of Zuigan temple in Matsushima on the next day. This is a beautiful tourist spot. Islands were arranged suitably, and the damage of the tsunami was not that much, either. But great damage occurred in the people who lived in the islands. As for Zuigan temple , there is a gate in the place where it got in from the coastline as much as 50M. When I heard the damage of the tsunami in the souvenir store, the salesclerk said to me that the tsunami was 1.2M high , and the souvenir was washed away. But the accident resulting in injury or death didn't happen. As the islands were arranged suitably, the certain islands might buffer the power of the tsunami.According to the report, the kindergartener of the nursery school of 440 shared behavior with the kindergarters. Then, their life was helped. The kindergarters usually did the training to move a kindergartener on the hill even if they were to be called fool honesty when the tsunami warning was announced. They tied up kindergartener's hands with many strings like Ukai's fisherman to see many kindergarteners. Moreover, they gave nineteen kindergarteners a ride in their own car, and they took shelter. Because both a body and a heart were deposited with the kindergarter, as for the kindergartener, they might be able to live at the God's mercy. There were an old man and woman who says "because I don't have the worth to live and can't do anything, I don't run away". They should follow the person who came for the safety confirmation in this emergency. A nearby acquaintance rather than a distant relative helps their life.
Actually, the tsunami came in every thirty minutes, and the first wave and the second wave were not so much, and it is said that the third wave was terribly big. It is about 4:06 after one hour and a half from the earthquake occurrence. The persons of family came home to secure a heater, clothes and food for the old man who said “it is cold". They themselves suffered the damage of the tsunami.
An old embankment to prevent the tsunami faced in the coastline, and it had been built obliquely in Rikuzentakata City. That was escaped from the destruction of tsunami. But a new embankment which was built for preventing the tsunami collapsed. It was built on a parallel with the coastline. They didn't presume that the tsunami went up 5KM, either. It had remblai taken with the returned wave, and collapsed.
There was no victim in the village which stood the monument of "don't make a house in the bottom from this monument". It is important to ascertain the character of nature like this. Won't we be asked not only to confront the menace of nature but also to use nature well?
The fuel tank of the port was washed away in Kesennuma City. Then, most of the buildings in the city area were destroyed by fire. A fire engine couldn't move in the debris, and it extinguished only the fire around the firehouse at the time of Hanshin Awaji earthquake disaster. The system of the firehouse doesn't cope with a large-scale disaster. The shortage of the number of worker, the shortage of information, the disappearance of the equipment machine and a waterway can't be secured. It is because they have such various problems at the time. Therefore, they can't cope with a natural disaster in a wide area without support from the outside. Such 200 patrol boats went to the relief with 108,000 persons of the Self-Defense Force to rescue them within 24 hours against last earthquake disaster. A task force such as a two-wheeled vehicle is necessary for the land route, because it is covered with debris and so on. Heavy equipment must progress from the sky and the sea. I think that they must do a search and rescue from the sky. If the large-scale emergency system and technology having no victim by the natural disaster can be established, I believe "Japan can become the most wonderful civilized country in the world".
4 Correspondence in the world scale to the natural disaster
4-1) Preface
The natural disaster which made several 10,000 victims appear often happened
in Japan and the world. Though an unexpected tsunami and the earthquake
struck east Japan, it is known that Jyougan earthquake followed with
a big tsunami on July 13, 869 in the history book.
It is mankind who can't get over such an earthquake disaster, damage from
storms and floods and a fire. We also know that we can't finish the man-made
disaster of the war and the terrorism in the present world.
4-2) Purpose
We are always listening "when a disaster is forgotten, a disaster
comes." and "if there is preparation, there is no anxiety."
The big earthquake disaster of the coastal waters of Sumatra and Hanshin,
Awaji big earthquake disaster occurred ,they were unexpected, and there
were many victims. Is a natural disaster the problem which mankind can't
get over?
But as for the typhoon we learn to estimate a course with an artificial
satellite , and make the effort which reduces the number of victims drastically.
And, as for the earthquake as well, an urgent earthquake prompt report
is provided. We would be planning the next activities if it is not the
earthquake of the bottom.
And no victim is in the village which continued to keep the predecessor's
instruction of "don't make a house in the bottom from this monument."
The infant of the nursery school of 400 and more could take shelter by
the teacher's lead.
Natural disaster country Japan which a natural disaster happens in every
year collects many data like natural science and the society, cultural
sciences, and it deals with that systematically, and develops various technology,
and enforces a countermeasure against the future natural disaster in Japan,
and it can send these to the world. So, the various proposals to get over
a natural disaster are done.
4-3) Method
It approaches from the interdisciplinary territory, and then we ourselves
must carry it out when we may be confronted with the natural disaster.
As for our carrying it out every year and for our carrying it out
in a long-range plan and for our carrying it out always, I mention in the
following.
1) A world joint memorial service for the dead is held. (Carrying
it out every year.)
A victim by the natural disaster is remembered and the memorial event is
held in each country of the world during the week which contains May 1
of every year. As the event which confirms "the aim toward the future
protection against disasters", that is handed down in the next generation.
①The speaker who is sufferer gives a lecture.
*Condolence to the deceased
*The conditions when it met
*A personal judgment and behavior
*Systematic correspondence
*The actual condition of the refuge life
*A present subject
*A wish to the future and aim
② Natural science, society, cultural sciences persons give their lecture.
*The result of the emergency research
*Risk management (including the risk of the thing that they aren’t being carried out at present)
*About information sending, approach from the mental side
*Simulation against the quality-like and the quantitative alteration
③ Politics, economic relation person gives the lecture.
*Risk management
*Organization management
④ Emergency training is carried out.
※ The day of the international natural disaster is the second Wednesday
every year in October.“ May I help you?”,these words are important. I want
to make the first day in May the day of the international natural disaster.
Moreover, winter ends, and this day is the day which it feels the breath
of spring with in the north country. It exceeds politics, an economy, a
race, religion and culture to be in the fable "north wind and the
sun", and it is not a cold north wind, and the wind of warm spring
is sent. The hate of the human heart is healed, and I want to take care
of "human being's bonds of affection" in the day of the protection
against disasters.
2) An international emergency city choice and a Internet world reconstruction
exposition are held. (Carry it out with a long-range plan.)
An international emergency city is adopted in every 4 years. An Internet
world reconstruction exposition is held in the international emergency
city which spent twenty years. That is named "the emergency
Olympic Games" in every 4 years. Social science, cultural sciences,
natural science and politics and an economic relation and a local
inhabitant persons spend about five years to investigate, to research,
and to discuss. They will adopt the international emergency city. Their
plan is raised for fifteen years, and they will carry out it .
①The harbor, the house, the structure thing, and so on are designed from
the emergency point of view, and they are arranged and prepared.
②Building of the information literacy
③For the inhabitant's refuge
④Community establishment between the local inhabitants
They are promoted.
We do at the Internet world reconstruction exposition, too. An international emergency city becomes the main place, and each country is connected on the Internet. The solidarity of "the human beings' bond" is confirmed with the exchange of the emergency information and the Internet domino (Domino-falling in the personal computer is connected over the network.) The society, cultural sciences person, a natural scientist and a politics, economic relation person announce the result of the inhabitant's opinion poll and the risk management. A check to the protection against disasters in each administrator is continued after the Internet world reconstruction exposition end. Global 100-year plan will be put together. Though several trillion yen is raised as a cost from the international natural disaster, it will be supported as the fund which an advanced country supports mainly, and the state budget of that country.
3) The establishment of the international natural disaster rescue party
(Carrying it out always.)
Hanshin Awaji big earthquake disaster happened on January 17 in 1995,
and 6,434 people died, and the persons who had the obstacle of PTSD
occurred frequently. Survival rate is high if it is within 24-hour after
a natural disaster occurs. Survival rate decreases as time passes.
I volunteered in the nearby elementary school where Hanshin expressway
collapsed. Useful work with my professionalism was not there. The work
to make the division of the relief goods and firewood, and cooking were
my work. I took care of a communication with the young people again. If
training such as operation of the machine was usually taken, I thought
that I must have been able to be more active. So, we will be able to make
the organization of the civilian who doesn't have not the army but a gun
in the base of the United Nations. They have the secondhand hospital ship
aircraft carrier which the osprey and the helicopter can be carried on.
The international natural disaster rescue party which copes within
24 hours accepts the request for each country .
This international natural disaster rescue party does on-the-job training
for 1-2 months every year by the group. ①Topography-like professionalism
②The technology that the disaster which happens while it is rescued after
the disaster is prevented
③Control of information
④The technology that a machine and osprey and a helicopter are operated
⑤The operation of the Information technology goods
⑥Lifesaving
When the governmental request of the disaster suffering country was taken,
we arrive at the spot within 24 hours, and rescue their life. Emergency
relief goods (food, clothing and shelter) are delivered. A position coordinate
is detected in the wristwatch with the GPS by the present information technology
and the search from the helicopter. Then, rapid rescue activities by the
member of the rescue specialty become possible.
The members of each country have been usually doing local topography research
in the technical viewpoint. That information is available, too. Rescue
support is finished in about one week. The members come back for the usual
work and the watching work. Activities are the ranges of 2,000KM. The members
are trained on the circumference high seas of the natural disaster country
of the world. They continue the watching of the natural disaster. After
that, local government will take on a life line and the reconstruction
of the means of transportation in the stricken area. The people of
where suffered in the past are employed to the member to their priority.
It discusses whether a holiday to have wage payment for 2 months in a year
can be taken with the folks and the government office in the condition,
and about one million people take it to the scale in the world. Though
several trillion yen a years is necessary, it is paid with the United Nations
fund as a cost.
4-4) Consideration
Even if a natural disaster will occur in the future, the emergency system
which doesn't make a dead person and a missing person will be built. The
helicopter of the aircraft carrier does some of those activities. Because
it has the possibility to become an unexpected natural disaster, an alarm
system and a communication system are built together. An international
natural disaster rescue party is not the army. Therefore they can cope
with a request for each country of the world which a natural disaster occurred
in at once. Then they take on lifesaving within 24 hours.
Contents of training are introduced to the public, and it appeals for
our activities to the people of the world on the occasion of the time of
the international memorial service and "the emergency Olympic
Games". The event in a long span was not planned . And, there are
few things which encourages future activities and promotion. In such
cases as the world joint memorial service for the dead proposed this time,
the choice of the international emergency city which has a plan for twenty
years and the Internet world reconstruction exposition. They are the activities
which have the international extent which moved the intelligence which
mankind experienced to the base. It is the event which worked with the
activities of the international natural disaster rescue party together.
Japan is the country which didn't give war and a civil war for a long time
in 70 years. We have the secondhand hospital ship aircraft carrier without
all missiles, guns and with the osprey and a helicopter for the lifesaving.
It contributes to the world peace that Japan supports an international
natural disaster rescue party. Then, Japan to hope for the world peace
doesn't give a person to the war, and we want to lose the bad reputation
to be dealing with it with money.
5 I want to work though I have only the slight power.
I felt myself to participate in the volunteer of Hanshin Awaji
big earthquake disaster. The people are possible by only living.
I felt that the big support of the outside was necessary at such time.
The Self-Defense Forces of about 100 thousand people, the police, fighting
a fire, the aircraft carrier of the United States and the power of others
crowd were concentrated, and many people were rescued in Higashi Nihon
big earthquake disaster. It came to have the hope that the young man of
the stricken area wanted to get a job in that occupation.
I have the qualification of the emergency person, domestic helper, too.
I want to show leadership by the disaster measures in advance, the correspondence
in the spot and the control of a refuge. If Japan develops technology,
society, cultural sciences and learns to rescue all of the victims, I think
that it becomes Japan which can be proud in the world. I am believed to
realize this project if the world and Japan has present information technology,
the mobile power of osprey and the helicopter and the aircraft carrier.
My friends saved in the stricken area were talking as follows. “We aren't just living, but we are being kept alive for the society contribution.” I thought that I saw a ray of hope in his eyes.
Hiroyasu Karimoto
Kanazawa City Hashiba-cho 8-1 in Ishikawa Prefecture
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